2011.10.16 Sun
教義改竄のウソ - 大川隆法は「父なる神」ではありません①
「ニセ教義」の実態
「幸福の科学」において「教義」なんてものは、あって無いのと同じです。
なぜならば、その場その場の「思いつき」で、大川自身に「都合がよい」ようにいくらでも「改竄」「改悪」がされていきますからね。
ですから、今言っていることが、将来的には「180度ひっくり返る」ことを想定しておきましょう。
ある時は、その場の気分で「黒」と言っていても、別な時は、その場の気分で「白」と言いだすのが、パーソナリティー障害に特有の「分裂的」な言動なのです。
さて、そんな「ご都合教義」のウソについて見てみましょう。
<「イエス」が「父と呼んだ神」は「大川」か?>
大川隆法の「大言壮語」「ホラ吹き」に、もう読者のみなさんは「うんざり」しているでしょうが、自分自身を「実際」よりも「大きく」「偉く」見せたい、というお決まりの「自己愛妄想」によって、かえって「教義改竄のウソ」が明らかになるケースがあります。
「イエス」が 聖書で「父と呼んだ神」は「私」です
今日は、この「発言」が「大ウソ」であることを検証してみましょう。
検証のポイントは、次の論点です。
(1)聖書で「父なる神」は「イエス」に何を命じていたか
(2)聖書で「イエス」は「父なる神」に「忠実」であったか
(3)「イエス」が「十字架」で死ぬことは「偶然的」な出来事だったのか、それとも「父なる神ご自身」による「意図・計画」であったのか
(4)「父なる神」の「定義」は何であり「大川隆法」はその「定義」に当てはまるのか?
(5)聖書は「父」と「子」で「別々の2人の神」を指しているのか
これら「5つの論点」を、聖書の「実際の記述」に即して、よくよく精査してみれば、大川隆法の発言が、全部において「ウソ」であることが分かります。
<①②③の論点についての検証>
まず、最初の3つの論点から検証してみましょう。
大川隆法は、イエスの「十字架の処刑」について以下のように語っております。
<「大川隆法」の「ホラ吹き発言」>
・「処刑」される事態を避けてもっと長期間にわたって「法」を説くように、という内容が 「父なる神」である「私の意志」であり「本来の計画」だった。
・「父なる神」である「私の忠告」を聞かないで 「父の意志」とは全く異なる「彼自身の意志」によって 「十字架の処刑」の道を歩んだ。
・「十字架の刑死」はイエスが「伝道に失敗」したことによる「当初の計画」から外れた「偶発的な出来事」だった。
これらの発言は、「聖書」の記述と「一致している」のでしょうか?
残念ながら「聖書」には、こう書いてあるのです。
・「イエス」が「十字架刑」で死ぬことは、旧約聖書において「父なる神」によるご計画として「啓示・予定」されていた。
・「イエス」の伝道活動は、華々しい成功をおさめていた (「ガリラヤの春」とも呼ばれる大盛況だった)
・「イエス」は「避けること」もできた「十字架事件」にどういう訳か、敢えて「突入」していった
・「処刑」の直前に、「ゲッセマネの祈り」で 「父なる神」のご意志に「従います」と言っている。
以上が、聖書に書かれている「実際の記述」です。
ここから客観的に読み取れることは、イエス・キリストは、「ガリラヤ伝道」で華々しく成功をおさめていて「無数の群衆」が取り巻いて、常にイエスを熱狂的に支持していたために、敵対者であるグループも群衆の反乱を恐れてなかなか捕えることができなかった。
しかし、どういう訳か、そうした伝道成功の状況を振り払って「私は、十字架で処刑され、復活するために、この世に来た」と、3度にわたって弟子たちに「宣言」をしてから「捕まって処刑される」ことを承知の上で「敵対者の本拠地」である「エルサレム」にあえて自ら進んで行かれた。
(エルサレム入城においては、旧約聖書で示されていた通り「ロバ」に乗った。)
「処刑」の前夜になって、ゲッセマネの園で「十字架の処刑」をできれば避けてください、と「父なる神」に祈って苦悩しているが、しかし、「父なる神」の「ご意志」に叶うことだけが実現されますように、と祈って、最終的には、「父の意志」に「忠実」に従われた。
そして、「救い主」であるイエスが「十字架」において「処刑」されることは、旧約聖書(イザヤ書やゼカリヤ書)に「父なる神」による「人間救済」の最重要の計画として、すでに「父なる神」によって啓示がなされていた。
つまり、「聖書」の記述によれば、イエスは伝道活動で「成功」していて、そのままであれば、捕まって処刑される危険は無かったのに、あえてその状況を振り払って、わざわざ「処刑」を受けるために、自分からエルサレムへと「出頭」した、というのが事実だった。
それは、すでに「旧約聖書」において予定されていた「父なる神」の「人類救済計画」が実現するためであり「父なる神」のご意志に、イエスは「忠実」に従ったまでのことである。
と、聖書では上のように書かれているわけです。
大川隆法が「ホラ吹き」で喋っている内容と、実際の「聖書の記述」はこんなにも違うわけです。
<「聖書」の記述と矛盾しまくりの「インチキ発言」>
聖書に書かれている「父なる神」は、イエスが「十字架」で処刑され、復活させることをはっきりと「計画」し「意志」しておられた。
旧約聖書においても、あなた方を救うために「贖い主」を送ると「父なる神ご自身」がすでに語っていた。
そして、地上のイエスは、最後まで、その「父なる神」のご意志に「忠実」であった。
「十字架の刑死」は、「父なる神」ご自身の意図であり、計画通りだった、というのが、実際の記述なのです。
しかし、大川クンはなんと言っているか?
イエスの「十字架」は、天上界の「本来の計画」では無かった。
あれは、イエスの「伝道の失敗」による事故だった。
「私」の意志は、イエスが「処刑」を逃れることだった。
と明言しているわけです。
もう明らかでしょう。
「大川隆法の言っている内容」は、聖書に書かれている「父なる神」に関する記述とは、まったくと言っていいぐらいに「一致」していません。
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