2011.10.14 Fri
「ニセ霊言」を暴く② ルソー&丸山真男 霊言での「大失態」
「ニセ霊言」の実態
「ニセ霊言」を暴く検証シリーズ第2弾でございます。
前回の「内村鑑三霊示集」が「1980年代の古い霊言」でしたので、今回は「2010年の新・霊言シリーズ」から
・日米安保クライシス(丸山真男の霊言)
・霊性の教育(ルソーの霊言)
この2冊で「致命的ミス」をやらかした大川クンの実態です。
最近の「霊言シリーズ」の特徴は
・中身が無い ただの「ヨタ話」
・下手な「モノマネ崩れ」
・「外国人の霊」のはずが「関西弁」丸出し
といった感じで「ウソ」「自作自演」だとすぐに分かってしまうレベルなのですが(1980年代の『旧霊言集』は、善川&富山の文才と知識のおかげで、まだ読みモノとしては「マシな中身」があったのとは対照的です)先ほどの2冊の霊言では「専門的な内容」にまで突っ込んでペラペラと喋り過ぎてしまい、それがかえって「仇」となって「ウソ」がばれました。
<『一般意志』の意味 が分からなかった大川隆法>
「霊言」がホンモノで「本人の霊」が入って喋っているとしたならば、自分自身が語った「思想」や「用語」の意味を間違えて、それに気が付かないなんてことがあるでしょうか?
「霊人自身」であれば、知っていて当然のこと、間違えようも無いことを、ポロポロと間違えてばかり。
これでは、すぐに「インチキ」「ニセ霊言」だと分かるでしょう。
上記の丸山真男/ルソーの霊言では『一般意志』という「ルソーの政治哲学」において「中心軸となるような重要概念」について(政治学を少しかじった人ならば、誰でも知っているレベルの内容です)まったくの「検討違いな意味」に「取り違えて」思い込みで「トンチンカン」な喋りを繰り返しています。
しかも、一度ならずも、二度も繰り返しています。
あまりの「学習能力の無さ」に呆れます。
少し引用してみましょう。
<丸山眞男の霊言>
国民によって形成された「一般意志」だな、まあ、ルソー的に言えば「一般意志」が神なんだよ。
国民の「一般意志」が神だから、今で言えば、まあ「世論」が神ということになるな。
それが神なんだ。だから、それに帰依すればいいんだよ。(『日米安保クライシス』p62~65)
ここで、丸山霊の語りと称して「一般意志」とは「世論」のことである、と言っていますね。
しかし、残念なことに、ルソーの造語である「一般意志」という概念は「世論」のことではありません。
ルソーは、いわゆる「世論」については『全体意志』という「別の用語」を当てています。
『一般意志』とは、かなり<特殊な意味>が込められた<ルソー独自の造語>なのです。
それは、国民の1人1人が「普遍的な真理」に照らして、理性的に熟考して「公共の利益」に一致した認識にまで「高められた意思」という内容が、ルソーの語った本来の意味なのです。
(へーゲルが言う「普遍意志」とほぼ同義だと言ってよいでしょう。へーゲルは、ルソーの「一般意志論」から影響を受けています。)
つまり、個々人の意見の寄せ集めである「世論」=『全体意志』とは全然レベルの違う内容を指しています。
ルソーの政治哲学には、「特殊意志」「全体意志」「一般意志」という3つの専門用語が登場します。
「特殊意志」は、個人が「自分の立場」からの利害に基づいて、こうしてほしい、ああしてほしい、という個人的な意見や願望(選好)です。この1人1人の「特殊意志」を集計して、寄せ集めていくと「全体意志」になります。
ですから、現在の「統計的な世論調査」は、いわゆる「全体意志」を調べようとしているわけです。
「一般意志」(=普遍意志)は、この2つとは次元が違うもので、個々人の立場や利害をいっさい度外視して「社会全体」や「公共善」にとって何が善いか?という「普遍的な真理」に基づいて考えられた、かなり「高尚な意志決定」のことです。
このように、思想関係の領域では、ルソーの造語である「一般意志」のように、見たままの「字面」の「イメージ」「語感」から想像できる意味と、実際に「意味する内容」「定義」が大きくズレている場合が多いのです。
別の記事でも詳しく書きますが「カントの霊言」で頻出している「悟性」という専門用語の「勘違い」も同レベルの間違いです。
つまり、専門的に学習しておらず、実際の内容に疎い(無知である)がゆえに、見た目の「日本語の語感」や「字面のイメージ」で憶測ベースでペラペラとそれらしくマネて喋ったら、自分の「誤り」に気が付かず「大失敗」した、というオチです。
大川のように、ロクに原典資料も読まず、基本的な「用語の定義」も理解しないまま「なんちゃってルソー」をハッタリで演じようとしても「一般意志」・・・うん、きっと「一般人の意志」のことだろうから、これは「世論」のことだな。というように「素人ミス」を連発して、ルソー本人ではありえないという「インチキ」「自作自演」の実態がバレるわけです。
ちなみに、ルソー本人の政治思想によると、私たちは、民主主義においては『全体意思』=「世論」によって、安易に意思決定すべきではなく『一般意志』=理性的に熟考して「普遍的な真理」「共通善」に一致した合意を行うべきですよ、と言っているのです。
「特殊意志」の寄せ集めにすぎない「世論」(全体意志)が神様だから、それに帰依しなさいなんてことは、ルソーはひとことも言っておりません。
つまり「日米安保クライシス」の霊言で、大川隆法は二重のミスを犯しています。
・ルソーの『一般意志』を「世論」だと誤解している
・ルソーが「世論」に従って意思決定すればいい
と言っていたのだと「勘違い」している、まさに「素人間違い」の典型です。
そして、このミスは「日米安保クライシス」だけに留まらず、少し後に収録された「霊性と教育」にも飛び火しています。
こちらは「丸山真男」ではなくて、ご本家の「ルソー本人」ですから、ダメージは甚大です。
「ルソーの霊言」の収録において、次のような質問がされました。
「前に収録された「丸山真男」の霊言では『一般意志』を「世論」であると、丸山氏が語られていたのですが、どうも「実際の定義」とは異なるようです。今一度、ルソー先生本人から『一般意志』の本当の正しい意味と『一般意志』、『全体意志』、『特殊意志』の3つの用語の、正確な定義についてお教え下さいますでしょうか?
この質問をしたのは「政務本部」(政党関係者)の職員みたいですが、たぶん、質問者自身がすでに「安保クライシス」の時点で「大川のウソ」に気が付いていたのではないでしょうか。
これは「確信犯的なひっかけ質問」だと言えます。
これに対する「自称・ルソー霊」(要は「大川隆法」本人の受け答えが「バカ丸出し」です。)「丸山真男霊」の言っていた説明は「誤り」で、正しくは「これこれ」の意味なんだよ、と答えていれば、まだ「ルソー霊言」としての信憑性が保てたのでしょうけれど、相変わらず、「一般意志」=「世論」のことです。という「オウム返し」に終始しています。
しかも、もうそれ以上の質問はムダだろうと「深堀」せずに質問追求を引っ込めた質問者に対して「あんた、いい人だねぇ」と安堵のご様子。大川隆法の「インチキ」っぷりの「底浅さ」と「品性の卑しさ」が滲み出ている文面でございました。(合掌)
この一件で「大いに肝を冷やした」大川クンは、この後、思想家の霊言を避けるようになりました。
2010年以降はみなさん御存じのように、電波系の宇宙人、史実や文献の残されていない架空の人物に「霊言」の登場者リストが集中するようになっており、特に、西洋系の思想家はまったく出ていない、という実情が透けて見えます。
(西洋系だけでなく、仏教や儒教といった東洋思想家もほとんど出ず。出てたとしても、深い内容は回避した「ヨタ話」に徹しています。)
なぜでしょうか?
答えは簡単。
「専門用語」で突っ込まれるのが、チキン大川には恐ろしくて「内容にまで踏み込んだ霊言」はできないからです。
自分で文献を書いていない人物、史実に残っていない超古代人、地球外のいわゆる電波系宇宙人であれば、どんな「トンチンカン」な発言をしても突っ込まれて批判されることが無いからです。
しかし、そうやって「内容のお粗末」な霊言が山のように積み上がることによって、かえって1980年代の「旧霊言集」との内容の落差(同一霊人であっても、天と地もキャラが異なる等)が誰の目にも明らかとなってしまいました。
「善川&富山」による「文章創作」霊言(私小説家風)と「大川隆法」による「即興自作自演」霊言(関西弁ヨタ話風)と、新旧の霊言集の「文面と言葉づかい」を比較すれば「中身の質」がいかに異なるか、はバレてしまっています。
つまり、書き手(作者)の違いが「中身の違い」となって反映されているのです。
<「日本語」の字面イメージだけで適当に喋る>
このように、大川隆法が「霊言」や「法話」でやらかした「痛恨のミス」を分析すると「お決まりのパターン」があることが分かります。
「専門用語」について、「定義」や「意味」をよく理解しないまま「日本語」の「字面のイメージ」や「語感」だけで判断して
「違う意味」にひどく「勘違い」したまま思い込み(憶測)で喋ってしまう
そして、収録が終わった後で「先生、あの用語の意味は、あれで正しかったんですか?」と突っ込まれて右往左往する、というパターンがとても多いのです。
これから分かるのは、大川隆法は「かなり頭が悪い」という事実です。
「概念(用語)の意味」を 論理的に 正確に理解する、という当たり前のことが、ひどく苦手なようです。
(だから司法試験でも、公務員試験でも「1次試験」で落とされたわけですね)
筋道だった論理展開、1つ1つの概念の定義、ができないからこそ「表面的」な「モノマネ崩れのヨタ話」をするしかない。さらに、善川&富山のような「私小説的な文章」を作る「高尚な文才」「文章作成のセンス」は残念ながら持ち合わせていない。(だからこそ『愛は風の如く』の続きは、富山氏亡き今となっては、もう永遠に書かれることがない)
1980年代の「旧霊言集」では、こうした「大川隆法の不得意な部分」をすべて善川と富山がカバーして「ゴーストライター」になってくれていたわけです。
しかし、今の大川には、そうしたゴーストライター役がいません。
なんとか、自作自演で「霊言」らしく「ハッタリ」を演じてみても、話の脈絡のなさ、一貫性の無さ、中身の空疎さ、文面の品格の低さ、といった「あらゆる点」において、『旧霊言集』とのギャップ・落差が如実に出てしまう。
今の大川隆法に辛うじてできることは
霊人の「下手なモノマネ」を、なんとか「それらしく」ハッタリで演じてみることだけで
話の中身については、まともな筋書きや文面は持ち合わせがナシ。
これが、2009年以降の「新霊言シリーズ」の実態というわけです。
大川隆法本人は、「昔取った杵柄」で「霊言」をやれば、前みたいにブームで人が集まるだろう、と思って始めたのかもしれませんが、フタを開けてみれば、一層の信者離れを引き起こして自分の首を絞める結果となったわけです。
(合掌)
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