2011.10.16 Sun
教義改竄のウソ - 大川隆法は「父なる神」ではありません②
「ニセ教義」の実態
続いて④と⑤の論点について検証してみましょう。
(4)「父なる神」の「定義」は何であって「大川隆法」 はその「定義」に当てはまるのか?
(5)「父」と「子」は「別々の2人の神」を指しているのか?について「聖書」は何と書いてあるのでしょうか。
<「父なる神」の定義は「造られざる存在」>
「聖書」の「父なる神」とは、どのような存在なのでしょうか?
「宇宙の創造主」であり「造られず、生まれずして、永遠に存在する方」です。
この「造られざる」「生まれざる」という点が「父なる神」の本質なのです。
では、大川隆法のいう「エル・カンターレ」は「造られざる」「生まれざる存在」だと言えるのでしょうか?
『太陽の法』(2011年3月 最新版)においても「幸福の科学」がご本尊にしている「エル・カンターレ」が「宇宙創造」の根本存在である、とは一言も書かれていません。
それどころか、小さな1つの惑星に過ぎない「金星」からポコンと飛び出て「生まれた存在」だ、というのが「エル・カンターレ」の出自である、と書いてあるわけです。
そもそも、宇宙全体に「金星」のような惑星がいったい何個あるのでしょうか?
「兆」単位よりも、はるかに無数の惑星が存在するでしょう。
「エルカンターレ」は、その「無数の惑星」の「カケラ」みたいな存在なのです。
言ってみれば「木の股から生まれてきた」ようなシロモノなわけです。
<『太陽の法』にある「エル・カンターレ」の定義>
・「存在」しなかった時間があった
・「惑星」をもとにして「造られ」「生み出された」
つまり、「聖書」に照らして考えれば「エル・カンターレ」は「被造物」にすぎません。
そもそも、元になっている「惑星」自体が「造られてできた被造物」なのですから。
すでに、この時点で「エル・カンターレ」が、聖書で言われている「父なる神」である、とは言えません。
<「子」と「父」の「位相」の違い>
ところで、この「創造主」たる「造られざる神」はそのままでは、地上の人間には「見る」ことができません。
だから、「父なる神」は「人間」として「地上」に現れ出るために「別の形態」になる必要があります。
「神」であると同時に「人」でもある「子なる神」という「特殊な形態」がそれなのです。
つまり、聖書が言っている「父なる神」は「地上世界」に「肉体」を持って「人」として存在することが「ありえない」存在です。それを可能にしたのが「子なる神」という特性なのです。
大川隆法のように、ぶよぶよの肉体を纏って、曲がりなりにも「人間」として生まれている以上、その時点で「父なる神」の定義は満たしていないのです。
<「父と子」という「2人の神」があるのか?>
大川隆法の発言で、もっとも致命的なのが「父なる神」と「子なる神」を、別々の存在、2つの実体、2人の違う神、である、と言っている点です。
「聖書」はそのようには言っていないのです。
「父なる神」と「子なる神」は同一存在である、というのが「ヨハネ福音書」の記述です。
わたしを見る者は、わたしを遣わされた方 を見る。(ヨハネによる福音書 12章 45節)
あなたがたが「わたし」を知っているなら、「父」をも知ることになる。
あなたがたは、すでに「父」を見ている。
「わたし」を見た者は「父」を見たのだ。
「わたし」が「父の内」におり、「父」が「わたしの内」におられる(ヨハネによる福音書 14章 7-11節)
と書かれていますが、もし「A」と「B」が「別々の異なる実体」であるのであれば、私たちは「A」を見たからといって「B」をも見た、とは言わないでしょう。
しかし、「A」と「B」が「同一存在」であるのであれば「A」を見たことは、同時に「B」を見たことになります。
富士山の「西側」を見た人も、富士山の「東側」を見た人も、どちらの人も、同じ富士山という
「1つの実体」の「異なる側面」を見ているのと似ています。
・「二神論」=「父」と「子」は「別々の異なる神」である
・「従属論」=「父」のほうが偉くて「子」は劣った存在である
この2つの主張は、「誤った聖書解釈」の代表格とされているもので、大川隆法の「聖書解釈」は「これらと全く同じ」なのです。
整理してみると、大川隆法の言う「エル・カンターレ」は
・「木の股」から生まれ出た「被造物」にすぎない
・「イエス」と「エル・カンターレ」は 無関係な「別の実体」である
・「カンターレ」は「十字架」を避けるように、イエスに忠告した
と言っているわけですから、①~⑤の全部の論点において「聖書の記述」と矛盾しています。
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